豆知識 このコーナーは3ヶ月に1回更新の予定です
お楽しみに!
ビーン君
         Vol.20 中尊寺では金色堂を修理するためにミイラの公開調査を行った?
 今回は奥州は平泉、「五月雨の降り残してや光堂」と芭蕉に詠われた東北地方の最高芸術、中尊寺金色堂。
 中尊寺は850年、天台宗の慈覚大師が開山し、12世紀のはじめ平安時代末期、奥州の六郡を支配した藤原氏初代清衝の発願により、前9年の役・後3年の役などの戦乱によって亡くなった人たちの供養・戦乱後の奥州の平和を願うため、21年の歳月をかけて創建されました。1190年に源頼朝に滅ぼされるまで、三代に渡り豊富に産出した金により栄華を誇りました。
 中尊寺は、藤原氏滅亡後も、寺の20人の僧侶と寺が持つ田畑60haを耕す小作農家によって守られてきましたが、戦後の農地改革により、寺を守る村落共同体は崩壊。寺は極貧となり、僧侶は次々に山を下り、アルバイトでの生活を余儀なくされました。そのため金色堂の漆や螺鈿の装飾ははげ落ち、金箔はほとんどが薄れぼろぼろになってしまいました。「このままでは、奥州の宝は駄目になる」。代々、寺を守る家の僧侶は文部省へ修理の交渉に日参しました。しかし文部省は「藤原三代の遺体が眠っているかどうか信憑性はない」と受け付けませんでした。
 それではと、この僧侶とんでもない手に出ました。金色堂に眠る藤原三代の遺体の公開調査を決行したのです。ミイラとなっていた遺体が発見され世の注目を集めました。まもなく、文部省は学者や寺の僧侶、全国の凄腕職人たち50人を集め昭和38年に解体修理を始めたのです。
 しかし平安時代の職人たちの漆と金箔の技の謎が立ちはだかりました。漆の色は、現代にはない光を吸い込むような黒。しかも、塗り方も螺鈿を作るのに夜光貝を貼り付けるため2cmの厚さでした。金箔も青みがかり渋く重みのある色でした。「技法の謎がわからなければ修理ができない」。そこで損傷が激しい部材をあえて切り刻み、その分析で謎を解明しました。文化財にメスを入れる事など、通常は許されない行為ですがあえて行い、800年前と同じ金色堂の復元に挑んだのです。
 結果、金箔には銀が混じり、端を重ねて、金箔同士の乱反射により深みを加え、2cmの厚さの漆が乾くためにマンガンを混ぜていたことなど次々に解明されました。ここに奥州の魂の源、藤原三代が眠る金色堂の完全復活を遂げたのでした。
 現在、平泉文化遺産の世界遺産登録が、多くの人々に支えられて準備が進んでいます。 


成瀬産業トップページへ